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中国人

タンザニア人は中国人(アジア人)を馬鹿にする。
差別しているといってもいいかもしれない。

まぁ、彼らの多くは俺達日本人も中国人だと勘違いしているので、
俺も差別を受けていると言ってもいいのだが、イラっとするだけで不思議と
ショックは受けない。

日本人と聞くと、人によってはガラッと待遇が変わる人もいるのだが、
彼らにとって中国は「偽物を作る厭らしい国」「カンフー」
「顔や服装が貧相で、貧しい国」らしく、馬鹿にする。動かないコンピュータに
向かって「コイツは中国っぽい」なんて表現をする事もある。

彼らの頭の中には、白人>アラブ人>黒人>中国人(アジア人)
の構図ができている。


でもそういう彼らは中国から入ってきた服を着て、中国製の最新携帯を
大事そうにに持ち、中国人が作った道路の上を中国から来た車で走る。
病院やサッカー場、橋、道路・・タンザニアはその中国からの支援を
実に多く受けている。


中国の途上国支援は、外交政略の目的が強く、また中国人はタンザニアで
不良品を売って金稼ぎをしていると言われている為に嫌われているのだが、
国内で生産できず、中国からの不良品に頼って生活している彼らが、
中国を差別していても、どこか滑稽に思えてしまう。

中国も、もはや中進国。GNPから言ってもタンザニアとは比べ物にならない。
中国人はタンザニアを、「貧しい国」と馬鹿にするのだろうか。



最近、「アジアのある民族(彼らからすれば中国人)が人肉を食べる」という、
人体がバラバラに解体された生々しい写真を添付したメールがタンザニアで
出回っているらしく、そのメールに同僚が群がって「中国人は人を食う」と
言いあっている場面に出くわした。

インターネットの普及が、こう言った民族の悪い評判、うわさを助長し、
誤った理解を生むのは、とても残念に思う。


インターネットの情報は玉石混淆。
それを念頭に置いた上で、取捨選択が求められるのに、インターネットに
慣れない彼らは、全ての情報に対して過剰に反応し、それを鵜呑みにしてしまう。
(日本でも鵜呑みにしてしまう人はいるが・・。)
まして日本の様に海外旅行に行ける人は少なく、異国を体験する事ができない。
そんな状況で、質の悪いインターネットの情報が彼らに届けば、
信じてしまうのも無理もない。

デジタルディバイドの高低差は大きく、川下に流れ込む情報は
大きな滝となって、彼らを溺れさせる。

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コンセントプラグ

ふとしたところで日本を感心することがある。
例えば、電気のコンセントプラグ。

日本では1種類(=←この形)しかないコンセントプラグ、よく海外旅行する人なら
ご存知の通り、世界中には10種類以上のプラグが存在する。
国によって規格が異なるからなのだが、タンザニアでは自前で電化製品を
作らない為、各国から電化製品が流れてきて、結果複数の規格が混在している。
コンピュータを修理していて、変換プラグを忘れると、プラグが
コンセントに合わなくて困ったりすることもしばしば。

そんなとき、「日本ってすげぇなぁ」と思う。
いろんな規格が統一されていて、「日本で売るならこの形で売りなさい」と
決まりを作り、それに従って各国の製品が入ってくる。
タンザニア政府が「この形で売りなさい」って言ったって、誰もその決まりを
守らないだろうな・・。

知的コンプレックス

誰にでもコンプレックスがある。
何事にもコンプレックスがない人間などいるのだろうか?
それを乗り越えようと努力をするからこそ、人は成長する。


タンザニア人にとってのコンプレックスは、「無知」。
これは教養の浅さ、教育水準の低さを言っているのだが、国の英雄・
タンザニア初代大統領ニェレレも、自身が英国留学から帰国して感じた
自国の問題について、「ujinga(無知さ、教養の少なさ)」を一つに挙げている。

そんな中、県庁で人気なのが「学業休職」。
県庁では在籍のまま学業休職をすることが認められていて、
奨励されているようにすら見受けられる。100人中、5人程度が学業休職している。
職員の、留学に対する関心は高く、仕事にそのモチベーションを持って
くれたらなぁ・・と常に思う。

職員はCRCに来ては国内外の大学を調べ、奨学金申請に精を出す。
国内で高水準の教育が受けれる大学は少ない。
国外の奨学金は、基礎教育(特に数学)が十分でない彼らにとってハードルが高い。


CRCで奨学金探しに躍起になっている職員を尻目に、「がんばってほしいなぁ」
とは思いながらも、最近公開されている高校1年生の国家試験結果の平均を見て、
この民族には大学ではなくてもう少し基礎水準の教育から必要なんじゃないかと
思ったりもする。


もう一つ、かわいそうだと思うのは、社会に、知識を得た人間の受け皿が
ないこと。産業が未成熟だからなのだが、ダルでコンピュータを学んだって、
マサシでその技術を活かすフィールドを見つけるのは非常に難しい。

産業と教育が相互に練り上げられて社会が成熟するのだと思うのだが、
国内産業が貧弱なタンザニアでは、教育に対する政策がいつか頭打ちに
ならないかと心配になったりもする。

mambo?

タンザニアの文化について。

まず真っ先に浮かんでくるのは、挨拶。
この文化は、実にすばらしいものだと思う。

挨拶をとても重視する彼らの会話は、まずは挨拶から始まる。
「Mambo?(調子は?)」「Habari za asubuhi?(今朝はどう?)」
「Hujambo?(問題ない?)」「Vipi hari?(調子はどう?)」
「Habari za nyumbani?(家はどう?)」

「habari」はスワヒリ語でニュースと言う意味だが、「habari」を
つければ何でも挨拶になってしまう。だから挨拶の種類は星の数ほどもある。

また質問に対する答えは決まっていて、「Nzuri(いいよ)」
「salama(平穏無事だよ)」などなど。
若者同士の間では「Mzuka(いっちゃってる)」「bomba(ぶっ飛んでる)」
なども入ってきて、それだけで笑いが起こる。

彼らはこの挨拶を長々と、大体2往復はを交えた後、やっと本題に入っていく。
しかしただ質問するのではなく、会話のテンポを重視してリズミカルに
挨拶を繰り返し、その後の会話のネタや会話のリズムをこの挨拶の中で
調整していく。挨拶が会話の潤滑油の様な働きをする。

また、黒人の太い唇からでてくる、語感が強いスワヒリ語のキャッチボールは、
黒人ラッパーのフローを感じさせることもある。

日本では、頭を下げて「こんにちは」と言う、形式を重んじた挨拶。
その挨拶は日本人の民族性が持つ奥ゆかしさの一つの要素なのだろう。
これもまた、日本の尊敬すべき文化の一つ。
ただ、たくさんの民族が集まる外交や社交の場では、フランクに多くの人と
会話を楽しみ、世界を広げていく文化の方が向いていると感じる。
日本の美徳である奥ゆかしさがそういう場で理解される事は難しく、
日本が外交に明るくないとされる所以は意外とこんな所にあるのかもなぁ・・
と思う事もある。


次に部族と家族。
日本にはない「部族」の単位だが、タンザニアにはマサイに代表されるような
120の部族が存在して、それぞれ出身、文化、言語が異なる。
日本の標準語と大阪弁ほど近いものではなく、見事に全く違う言語。
この複数の民族間で共通に使われているのがスワヒリ語で、スワヒリ語があるから
部族間で円滑にコミュニケーションを取る事ができ、民族間紛争が起こら
なかったと言われている。

昔は部族間には壁があり、財産を部族外に出さないように部族間結婚を
禁じたりもしていたらしい。しかし現代は部族間の違いは少しづつ埋められて
きていて、例えば若者は自分の部族の言葉を全く知らなかったり、
各地に色々な民族が入り混ざって生活している。

ただ今でも、その人が何族かを聞けば大体の出身地が分かる。
部族は恐らく、日本で言う「何県民」にあたるが、「関西人=おもしろい、
お喋り」と言われる様に、部族にも其々の民族性がある。
代表的なのを挙げると、チャガ族など北の部族はスラっとして身長が高く、
スタイルがいい。また頭がよく、商売に強いとされる。
南に住む部族(マコンデ族)はずんぐりむっくりで背が低く、陽気で
怠け者と言われる。


家族の考え方も、日本とは決定的に異なっており、
タンザニアの家族は、かなり部族の単位に近いと感じる。
現地人の説明を聞いてもややこしすぎて
未だ理解しきれてないのだが、確かなのを一部。。
・子供にとって、お母さんの女兄弟は全員お母さん
・お父さんの男兄弟は全員お父さん

イスラム教徒の一夫多妻制の家になると、もう訳がわからない。
以前タンザニアで働く日本民間企業の方が、忌引きで休む現地職員を見て
「彼はお父さんが何回も亡くなっている」と不思議がっていたのを思い出す。

なぜこんなにたくさんお父さんやお母さんがいるのかというと、
親が亡くなった場合の子供の引き取り先を作っておく意味があるらしい。
その背景には、医療が発達していない為に親の平均寿命が短いこと、
また1つの家庭でたくさんの子供を産むことがある。

一方で問題もある。部族によっては、夫が亡くなった妻子が夫の兄弟の
家に引継がれる為、夫の死因がエイズだった場合、
妻⇒夫の兄弟⇒夫の兄弟の妻⇒・・と、エイズの蔓延を広げてしまう。



最後にPOLE POLE(ゆっくり)。
せっかちな俺にとっては、南米のアスタマニャーナ(明日やれることは明日やる)
よりもタチが悪い、「ただひたすらゆっくり」な文化。悪化すると
「kesho haifiki(明日はこない)」。毎日「明日」が明日に逃げていく。

なにしろこっちはスピードが遅い。仕事は勿論、歩くスピード、
配膳のスピード一つとっても、一連の動作全てに機敏さは全く感じられない。

ゆっくり、急がなければ待つことが苦にならず、また皆がゆっくりなので
急ぐ必要がない。この考え方が精神的なゆとりを生み、
怒らない(怒を悪とする)民族的な性格を培っているのだろうか。




文化・社会・宗教の違いは、あるテーマで比べると一長一短がある。
(例えば「近代的な発展」や、「女性の社会進出」など)
しかし人生にはそもそもテーマなど決まっておらず、個々で価値観が違うのと
同じように、それらの違いを比べる事自体に意味はない。
これは「幸せに生きたい」と考えている人と、「勤勉に生きたい」と
考えている人、どちらがよいか?どちらが正しいか?を比べることと等しい。
つまり其々の国には、そもそも優劣は無い。

大事なのは、違いを違いとして受け止め、尊重し合う姿勢だと思う。
一年ここで生活してみて、改めて最近強く思う。

National Exam

タンザニアでは年に1度行われる国家試験。
Form 4(日本では高校1年生)の生徒が対象の国家試験で、
タンザニア全土の生徒が受けるのだが、その結果が今日発表された。


結果は教育省のホームページか、大分遅れて試験結果の冊子が各県の
公共機関に送られる。

マサシでインターネットができる場所は俺のオフィスを入れて3箇所。
生徒やその親たちは必然的にそこに群がることになる。
何しろ結果はホームページでしか見る事ができない。
(彼らも冊子はあてにしていない)

職員たちは自分の親戚の結果を携帯片手に調べ、その後ろには住民たちが並ぶ。
CRCに行列ができたのは初めてだ。
また全国から、サイトにアクセスが集中する為、ページが遅くなる。

誰かが結果をプリントアウトして外に張り出しすれば、重くなったページを
何度も開かなくて済むのに、外で待ってる人たちが列を作る必要が無くなるのに、
誰もそれをやろうとしない。

気付いていないのかと思って「住民の為にやったら?」と指摘しても、
「俺の仕事じゃない。お前がやれ」という始末。
結局俺がプリントアウトしたけど・・。

県庁職員ならば住民に行政サービスを提供するのが仕事なのに、自分のこと
だけ調べてハイ終わり。職員だから俺は住民よりもプライオリティが高いんだ、
と横入りする輩すらいる。完全に失望した。

ちなみに生徒たちの結果を見てみると、殆どが5段階中の4(5が一番悪い)の
ギリギリ合格か、落第ばかり。。。特に数学は酷くて、4ばかり。
「国の病」と言われる数学は、こうやって結果を見ると痛々しい。

ポショ

タンザニアの社会には不思議なシステムがある。
「ポショ」と呼ばれる手当は、職員が本来の業務とは別の何らかの事をした場合、
例えば会議に出席したり、出張したりする度に発生する。
日本では出張の際に「日当」が支給されるが、これに近いのかもしれない。
しかしポショは、日当とは額面も目的も完全に異なる。

何しろポショは、一回の会議で県庁職員の月給の1割程度が支給されたりする。
つまり、会議に10回出席すれば、一か月の給料が倍になるということ。
国会レベルになると、一日に700,000Tsh(7万円位)ものポショを受け取る
議員もいるのだそう。

日本における日当は、出張などで遠方を訪れた場合、普段ならば使わなくて
済むであろう出費が旅先で発生することが考えられるので、出張の
「日数」に応じてその出費を補填する為に定額が支給される。

一方ポショは、「日常業務を邪魔したから」または「エクストラな仕事を
させた」事に対する慰謝料なり謝礼金の意味があるらしい。
だから額も相当で、日数ではなく回数で支給される。
例え会議で寝ていても、出席するだけでポショが発生する。
辛辣に言ってしまうが、本来の業務ですらきちんと働けない彼らが、
その業務ができなかったからといって慰謝料を受け取るのは、
どうにも腑に落ちない。

謝礼金を受け取るからには、会議でそれ相応の働きをする必要があるわけで、
タンザニアじゃなくとも、世界中で開かれるミーティングの全てにおいて、
人種問わず、性別問わず、口開いて発言する人間は出席者の中で何割だろう?
会議の目的を理解して、効果的に立ちふるまう事ができる人間は何人だろう?
「会議の8割が無駄な時間」と言われるくらいだから、、それの「出席」に
金を払うのは無駄に思えて仕方がない。


ポショについてこんなにグチグチと書いてしまっているのは、
俺の活動の2つがこのポショに邪魔されているから。
webコンテンツを決める為のミーティングに、職員がポショを求めたり、
MS Officeを教える為の教室で、参加者がポショを求めたりする。

口に出る言葉は、「はぁぁ?!」ばかり。
タダで教えてもらって、なぜ金まで請求できるのかよく理解できない。
この違いは・・文化??

タンザニアの未来の為に、職員のコンピュータ技術向上の為に、
ポショを払って授業を受けさせようとする隊員もいるのかもしれないが、
俺は10回生まれ変わってもそうはならない。


まして日常業務とは、会議を含めて「日常業務」であり、
会議は目的の為の手段であって、その手段に金を払ってしまっては、
だれもその先にある目的を知ろうとはしない。

そもそも日常業務ってなによ?
「あなた達与えられた仕事の垣根の中で仕事するのやめなさいよ!」
こんなニュアンスの発言・・ポショを考えると、昔の上司の顔を思い出す。

Ujamaa

今回はタンザニア社会に関する考察。

タンザニアはコネ社会。
県庁でも「彼/彼女の父親はどこかの部署の部長」なんて話は
よく聞くし、どこか世襲を感じさせる社会がある。

とはいえ就職先を探すといっても「リクナビ」や「デューダ」が
あるわけではないし、「ホットペッパー」が必要なほど店が多いわけでもない。
就職には誰かの紹介が必要になる。

世襲に似た文化にはもう一つの側面がある。
エライ人は金を稼ぐので子供をよい学校に通わせることができ、
教養のある人間に育つ為、エライ人の子供は得てしてよい人材となる。
結果、父親が働く様な稼ぎのいい就職先に就くことができる。
一方でカネを稼げない親の子供がどうなるかは・・絶対ではないが、
逆もまた真といえる。

日本の世襲は「血縁」を意識した、氏神などの仏教的宗教背景や財産相続、
一族意識なんかが先立って生まれたのだと思われるけど、ここでは少し背景が
異なる印象を受ける。


次に「助け合い(saidiana)」の社会。
社会福祉が存在しないタンザニアで、ホームレスの様な毎日の食事に
困る人が飢え死にしないのは、この社会機能が働いているからだと思われる。
富をもつ人間が物乞いを受けた場合、貧へその日限りの銭を与えたり、
食べ物を分け与えたりする。近所同士での救済や、血縁同士での救済も
多く行われている。広くを「友達」とし、また「brother(ndugu)」とよびあう
文化も、このsaidianaに起因しているのかもしれない。

このタンザニア社会を基に考案され、実行されたのが「ウジャマー政策」。
「baba wa taifa(国の父)」として知られるタンザニア初代大統領ニェレレは、
タンザニア社会を複数のウジャマーとして単位(具体的には村単位)し、
ウジャマーごとに生産した食料を皆で共有して均等に分配することで
ウジャマー内での食いっぱぐれが発生しないように目論んだ社会主義的政策。
当時はタンザニアの社会にあった画期的な政策だったらしい。
ただ社会主義は社会の生産性が極限まで伸ばし続けられる事、個々人の
私利私欲が介在しないことが大前提なので、最終的には破綻してしまった。

話は逸れるが、日本にもタンザニアに似た助け合い文化があった。
終身雇用に見られる雇用形態(能力の低い先輩社員を優秀な
部下がカバーする)や、ご近所付き合いの町内会などが挙げられる。
それに勤勉な民族性に高度経済成長が重なって生産性が劇的に伸びた事で、
一時は「社会主義に一番近い資本主義国」として知られたらしい。
マルクスの経済論によれば、成熟した資本主義の次の段階が社会主義とされている。


話を戻して、現地人の集団意識の高さが、別の方向に働く事がある。
それが、「モーブ・ジャスティス(集団制裁)」。集団リンチ。
犯罪者(窃盗など)が誰かに捕まると、オーディエンスはその犯人を集団で
殺してしまう。殴り殺したりタイヤを被せて火をつけたり・・・。
サッカーでフーリガンが暴徒と化すように、彼らもまたこのときは暴徒化する。
いつでもフレンドリーな彼らが豹変する様子は考えるだけでも恐ろしいが・・。
住民からすればこのモーブジャスティスは、治安を維持する目的もあるらしい。
確かにこのモーブジャスティスは犯人としても恐ろしく、どんな小さな窃盗でも
制裁で殺されるかもしれないのだから、なかなか実行できない。
捕まったら、何よりも先に警察に引き渡される事を望む。

タンザニアにおける人口:警察人員数の比率は1400:1と、
国際基準450:1に比べ低い。その割に治安が安定しているのは、
このモーブジャスティスが働いているのか、単に穏かな民族性なのかは
分からない。


そして格差社会。
saidianaの社会と相反する内容に見えるが、歴史的な順序としては
saidianaが先で、国の発展につれて格差社会が色濃くなってきたんだと思う。

タンザニア近代社会のシステムは、地位のある人間は多くの金を手にし、
地位のない人間には殆ど金が入らない仕組みになっている。
言うならば格差が格差を生む社会。
発展途上国のご多分に漏れず、賄賂や脱税などが横行している為、
この仕組みはなかなか変わらない。

悪さをして金を儲けた人間が、誰かに告発されようとすれば
当然金を握らせるに決まっている。
告発する人間が地位がない人間だったら、生活にすら苦しいのだから
受け取ってしまうのは仕方がない。
金を受け取ってしまった人間はそのまま悪さを続けて上に上がり、
受け取っていた金を、渡す側に変わる。

この社会で生活に貧窮した人間が賄賂を手にしたとして、
誰がその人を裁けるのだろう?

操るもの

今回は珍しく宗教についての考察。


タンザニアで生活していると、現地人と宗教の話題になることが多い。
前にも説明したとおり、ここの人たちはキリスト教40%、
イスラム教40%、その他20%。

よく現地人に「じゃあお前は、お前の国の宗教はなんだ?」と訊かれ、
その度に俺は「無宗教だ」と答えている。日本は仏教国と言われているけど、
現に日本の若者に同じ質問をして、「仏教徒だ」と答える人は何人いるだろう?
恐らく2割を切るはずだ。

「無宗教だ」と答えると、タンザニア人は信じられないという顔をする。
中には冗談と思う人もいるぐらいで、彼らにとって宗教は人生と切り離せない
程重要なもの。キリスト教徒は毎週日曜日に教会に行き、イスラム教徒は
金曜にモスクにお祈りに行く。

彼らから見れば、無宗教の私にとっての神の存在だとか、毎日の幸せや
神の御加護が俺たちの目にどう映っているのかが気になるらしいが、
俺には毎度、同じ事しか答えられない。

「神はいるかもしれないし、いないかも知れない。」
(こういう考え方の人を、哲学では不可神論者というらしい)

見た事のない神を、俺は信じる事ができないし、毎日の幸せや不幸は過去の
自分の行いに起因するものであって、過去⇒現在⇒未来は全て連続していると
思う。その考え方そのものは、因果に基づく「科学」に近く、
言いかえれば俺を始めとする日本人の若者の多くは「科学」を信仰している
といってもいい。とタンザニア人に補足する。

話が逸れるけど、宗教の話には必ず科学と哲学が登場すると思う。
科学と哲学、宗教は密接に絡み合っていて、従来科学は世界のあらゆる事象を
論理で証明しようとしてきた。それに対し、それで証明できない、もしくは
未だ証明できていない事象を宗教で「神の範疇」と位置づけ、
哲学はこの2つを、総合な視点から考察し、その2つのテリトリーを
分けてきたんだと思う。

話を元に戻して、何か自分に災いが起きた時、「bahati mbaya(運が悪い)」と
片付けてしまう文化、これはどこかしら「神がかり」的な力を意識していて、
因果を学習する機会を逃してしまう為に近代的(科学的)な発展には向かない。
一方で、日本の様に因果を重んじる宗教観(仏教における輪廻の宗教観に近い)
では、原因から生まれる結果を先に読むことで、同じ「悪運」には見舞われず、
着実に生きる事ができる。

これだけを言ってしまうと、日本人の宗教観の方が、タンザニアの宗教観
よりも優れている印象を受けてしまう。

でも、先の事が分からない方が楽しめる事も多い。
小説を次から次へと読み進めたくなる気持ちがそれに似ている。
小説は、先のストーリーが分からないからこそ面白い。
先が分かってしまっては、小説を読むことがただの作業になってしまう。
現に彼らの人生はニュースに溢れていて、毎日の些細なこぼれ話で彼らの表情、
毎日が彩られている。

彼らの宗教活動についても、優れている点がある。
定期的な教会やモスクへの礼拝は、近所の人たちが集まるローカル
コミュニティー形成の場にもなる。「うちの子がもうすぐ小学校」だとか、
「隣のおばあちゃんが亡くなった」とか、そんなニュースが彼らの
コミュニケーションを豊かにしている。

彼らの宗教観は彼らの人生を豊かなものにしているのではないか?


さて改めて考えると、俺(日本人)は本当に無宗教なのか?
家に仏壇はないし、毎週お寺に行くわけでもないし経を唱えるわけでもない。
しかし、もし自分が明日死んだとすると、お経をあげて欲しかったり、
誰かに線香をあげて欲しかったりすると思う。
自分の両親が亡くなって、式をあげない子供はいるのだろうか?

発展(科学)を手にし、それを信じる日本人にとってもまだ、
未知の世界は存在して、その世界に対する考え方は、やはり宗教(仏教)の
考え方に基づいている。その割に、俺を始めとする日本人は宗教に対する
知識が浅すぎる。

宗教とは何か?神とは何か?を考えた時に、彼らに学ぶことが多い。
以前ミッション系の医療従事者と話をしたが、その人の言葉が頭から離れない。
「患者の命に関わる選択を迫られた時、自分の決断だけで
 決めることはできない。その決断に神のご意思があると考えることで
 初めて自信が持てる。救われる。それも、神の力添えだ」


最後に俺が不可神論者なのは、「操るもの」の存在を疑っているから。
例えば、地球上の人口は何かにコントロールされているのではないか?と思う。

全ての人間が寿命まで生きられる世界では、人口が際限なく増加して
地球上に住む場所がなくなり、食べるものも不足してしまう。
今の地球がそうなっていないのは、自然災害だったり、病気の流行だったり、
戦争が原因で、多くの命が犠牲になったからと考えると、
何かに、全世界の人口がコントロールされている感覚になる。

世界のどこかに「操るもの」がいて、自然災害を起こしたり、
ヒトラーの様な指導者を生み落としたりしているのではないか?
20世紀に比べ戦争が落ち着き(?)、自然災害に対する被害も昔ほど
ではなくなった今、人間の行動が原因でエイズが発生し、流行したり、
核兵器が生みだされたのは何か意味があるのではないか?
勿論たまたまかもしれないけど、全ての事象には原因があるとするのが
科学の考え方でもある。


この例は大分オカルト的だけど、デモクリトスが万物の創造者として
第一起動者の存在を示唆した様に、神ではないけどそんな存在があると、
過去の長い歴史や現在の事象に合点がいくなぁと思う。
それに我が家や、国立公園で成り立つ食物連鎖を見ていると、このキレイな
図式が何者かによって作られたかのように思えてくる。

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