スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

mambo?

タンザニアの文化について。

まず真っ先に浮かんでくるのは、挨拶。
この文化は、実にすばらしいものだと思う。

挨拶をとても重視する彼らの会話は、まずは挨拶から始まる。
「Mambo?(調子は?)」「Habari za asubuhi?(今朝はどう?)」
「Hujambo?(問題ない?)」「Vipi hari?(調子はどう?)」
「Habari za nyumbani?(家はどう?)」

「habari」はスワヒリ語でニュースと言う意味だが、「habari」を
つければ何でも挨拶になってしまう。だから挨拶の種類は星の数ほどもある。

また質問に対する答えは決まっていて、「Nzuri(いいよ)」
「salama(平穏無事だよ)」などなど。
若者同士の間では「Mzuka(いっちゃってる)」「bomba(ぶっ飛んでる)」
なども入ってきて、それだけで笑いが起こる。

彼らはこの挨拶を長々と、大体2往復はを交えた後、やっと本題に入っていく。
しかしただ質問するのではなく、会話のテンポを重視してリズミカルに
挨拶を繰り返し、その後の会話のネタや会話のリズムをこの挨拶の中で
調整していく。挨拶が会話の潤滑油の様な働きをする。

また、黒人の太い唇からでてくる、語感が強いスワヒリ語のキャッチボールは、
黒人ラッパーのフローを感じさせることもある。

日本では、頭を下げて「こんにちは」と言う、形式を重んじた挨拶。
その挨拶は日本人の民族性が持つ奥ゆかしさの一つの要素なのだろう。
これもまた、日本の尊敬すべき文化の一つ。
ただ、たくさんの民族が集まる外交や社交の場では、フランクに多くの人と
会話を楽しみ、世界を広げていく文化の方が向いていると感じる。
日本の美徳である奥ゆかしさがそういう場で理解される事は難しく、
日本が外交に明るくないとされる所以は意外とこんな所にあるのかもなぁ・・
と思う事もある。


次に部族と家族。
日本にはない「部族」の単位だが、タンザニアにはマサイに代表されるような
120の部族が存在して、それぞれ出身、文化、言語が異なる。
日本の標準語と大阪弁ほど近いものではなく、見事に全く違う言語。
この複数の民族間で共通に使われているのがスワヒリ語で、スワヒリ語があるから
部族間で円滑にコミュニケーションを取る事ができ、民族間紛争が起こら
なかったと言われている。

昔は部族間には壁があり、財産を部族外に出さないように部族間結婚を
禁じたりもしていたらしい。しかし現代は部族間の違いは少しづつ埋められて
きていて、例えば若者は自分の部族の言葉を全く知らなかったり、
各地に色々な民族が入り混ざって生活している。

ただ今でも、その人が何族かを聞けば大体の出身地が分かる。
部族は恐らく、日本で言う「何県民」にあたるが、「関西人=おもしろい、
お喋り」と言われる様に、部族にも其々の民族性がある。
代表的なのを挙げると、チャガ族など北の部族はスラっとして身長が高く、
スタイルがいい。また頭がよく、商売に強いとされる。
南に住む部族(マコンデ族)はずんぐりむっくりで背が低く、陽気で
怠け者と言われる。


家族の考え方も、日本とは決定的に異なっており、
タンザニアの家族は、かなり部族の単位に近いと感じる。
現地人の説明を聞いてもややこしすぎて
未だ理解しきれてないのだが、確かなのを一部。。
・子供にとって、お母さんの女兄弟は全員お母さん
・お父さんの男兄弟は全員お父さん

イスラム教徒の一夫多妻制の家になると、もう訳がわからない。
以前タンザニアで働く日本民間企業の方が、忌引きで休む現地職員を見て
「彼はお父さんが何回も亡くなっている」と不思議がっていたのを思い出す。

なぜこんなにたくさんお父さんやお母さんがいるのかというと、
親が亡くなった場合の子供の引き取り先を作っておく意味があるらしい。
その背景には、医療が発達していない為に親の平均寿命が短いこと、
また1つの家庭でたくさんの子供を産むことがある。

一方で問題もある。部族によっては、夫が亡くなった妻子が夫の兄弟の
家に引継がれる為、夫の死因がエイズだった場合、
妻⇒夫の兄弟⇒夫の兄弟の妻⇒・・と、エイズの蔓延を広げてしまう。



最後にPOLE POLE(ゆっくり)。
せっかちな俺にとっては、南米のアスタマニャーナ(明日やれることは明日やる)
よりもタチが悪い、「ただひたすらゆっくり」な文化。悪化すると
「kesho haifiki(明日はこない)」。毎日「明日」が明日に逃げていく。

なにしろこっちはスピードが遅い。仕事は勿論、歩くスピード、
配膳のスピード一つとっても、一連の動作全てに機敏さは全く感じられない。

ゆっくり、急がなければ待つことが苦にならず、また皆がゆっくりなので
急ぐ必要がない。この考え方が精神的なゆとりを生み、
怒らない(怒を悪とする)民族的な性格を培っているのだろうか。




文化・社会・宗教の違いは、あるテーマで比べると一長一短がある。
(例えば「近代的な発展」や、「女性の社会進出」など)
しかし人生にはそもそもテーマなど決まっておらず、個々で価値観が違うのと
同じように、それらの違いを比べる事自体に意味はない。
これは「幸せに生きたい」と考えている人と、「勤勉に生きたい」と
考えている人、どちらがよいか?どちらが正しいか?を比べることと等しい。
つまり其々の国には、そもそも優劣は無い。

大事なのは、違いを違いとして受け止め、尊重し合う姿勢だと思う。
一年ここで生活してみて、改めて最近強く思う。

スポンサーサイト

comment

Secret

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。